SOTO

イリデッセンス・カラーシフト

登場キャラクター

3.ユアホロウ・ノーアナザー


 自信はあった。どうにでもできると思っていた。そのために布石を敷いて、根回しをして、立ち振る舞いに気をつけて。
 完璧だと思った。これで君を手に入れられると思っていたのに。

 あっさりと、全てが変わる。
 どうして? なんで? こんなに、こんなに頑張って全部準備したのに?
 全てがひっくり返された。そうして俺は無様に地面へと這いつくばる。輝きたいと願う君の背に手を伸ばしても届かないように。彼女は一瞥して歩き去っていく。

「アタシの夢にアンタは必要ない」

 俺は、君がいないと生きていけないのに。どうして「僕」を、置いていくの。

 *

「おーい、生きてるか~」
「死んでるんじゃないですかねぇ……」

 うるさいな、と思った。
 喧しさで痛む頭を動かして目を開ける。そこには、暗い天井があった。少しばかり肌寒い。まだ春先のひんやりした空気だ。窓を開けた覚えはないな、と思って。そういえばこの間叩き割ったからそりゃそうだ、と考え直す。
 ドアのノックの音が聞こえるが、何も聞こえないフリをした。開ける気も無ければ、返事をする気もない。何もしたくない、何も考えたくない。何もかもが億劫で、呆然としていると声は聞こえなくなった。
 ――帰ったのか。あの二人らしい。首だけ突っ込んでヤバそうだったらさっさと去る。野次馬根性丸出しの、下世話で畜生な性分だから。
 そんな風に内心こき下ろしていると、ドアの音がガチャガチャと鳴り。静かに、カチャンと音がした。

「生きてるか………………………………いや、よく生きてるな……」
「ヤバすぎでしょうよ…………想像以上なんですけどぉ……」

 ガランガランと何かが飛び散ったらしい音がした。無遠慮に入ってきた侵入者に舌打ちを溢し、重たい身体を動かせないまま口の中で悪態を吐く。

「……ウザ。何?」

 予想通りの二人の顔を見て、天井を眺めたまま返答する。
 ベッドなんてものは破壊しているから、唯一平らな場所の机の上に寝そべっていた己を一瞥した先輩二人は、「ワァ……」と小さく声をあげた。

「よくそんだけ満身創痍で平気そうですね~……………………」
「おい、やっぱ怪我してたぞ!! やっぱ保健医呼んでて正解だったじゃねぇか!!」
「うるさいな……」
「ワア、機嫌悪……やっぱ幼馴染絡みで?」
「ハ? 黙ってろ。聞きたくないよ」

 幼馴染、という単語に怒りを覚えて二人の先輩に毒づくが、予想していたのか彼らは肩を竦めるばかりだった。
 説明する気もないし、もう取り繕うものは何にもない。苛立ちを隠さないでいると、後ろからひっこり出てきた保健医が衝撃を受けた顔をしていた。
 まぁ、別に、どうでもいいか。自分の評価なんて都合が良い仮初だ。
 有象無象が何を言い出しても興味が無いとばかりに動かないでいると、何人かの声が聞こえてきた。そして、気づけば保健医が破壊した家具を横にどかしながらなんとか自分を肩に担いでいた。抵抗すら億劫で、無言でいると隣から「優等生の君がねえ……」とぼやく声が聞こえてきた。

 優等生か。そりゃ、今までそれを被ることが好都合だったけれど。今ではもう、被る余力もないし意味もない。ずるずると引きずられるまま保健室に運ばれる最中。自分は口を開かなかった。

 *

 オリビア、という少女がいる。とてもかわいい女の子で、ふわふわのスカートを翻しながらお日様の下を走り回っていたので、一方的に知っていた。
 彼女は俺の家の近くに住んでいた。日がな外で遊び多くの友に囲まれてきゃあきゃあとはしゃぎ走り回るのを窓の外で眺めながら、「羨ましいな」と口の中で呟いて、諦めるように重たいばかりの参考書を開く。

 俺の両親は多忙かつ教育に熱心だった。恐らく研究員だったのだろうとは思う。彼らは常に「知識は己の一生の友である」と豪語して、多くの教材を俺に与えた。まるで雪崩のように埋もれる俺の心を顧みることもなく、口を開けば「勉強しろ。大人になってからする前に今沢山学んでおけば一生役に立つ」と言い捨てて仕事に行くような有様だった。
 勉強は大事だろうけど、俺はもっと遊びたかったし構ってほしかった。たくさん泣いたしワガママを言って、反骨しようと抗った。最初はそれで仕方ないと頭を撫でてくれたけれど、次第に二人の顔から笑顔が消え失せていった。

「ねぇ、ヘラルド。私達は貴方の事を想っているのにどうしていうことを聞いてくれないの?」

 勉強を放り投げた俺に淡々と告げ、まるでいうことを聞かなければ不要だと言いたげな冷たい目線に傷ついた。そうして、俺は反抗を辞めて教材に埋もれるように生きるしかないと言い聞かせた。

 何も楽しくはない。楽しくないのに、やるしかない。心にあるのはつまらなさ。見えない空洞にはただ寄せ集めの詰め込んだ数字と文字の羅列。
 そうして出来上がったのは対人関係が不得意な引っ込み思案のガリ勉男子だ。周囲が楽しそうに話すアニメやゲーム、漫画の話なんて分からない。遊びに誘われても遊び方を知らない。次第に「お前つまんない!」とクラスでひとり浮き、好奇の只中に浮き上がった。

 勉強は一生の友というけれど。でも、勉強だけしか友達がいなくなっちゃうよ。
 ぽき、ぽき、と小枝が折れるような音。耳の中。頭の奥。何かが連鎖的に崩れていくように。砂に溶けて消えていくように。泣きたい気持ちがさらさらと灰になるような感覚が、足元を揺らして、暗雲の中に真っ逆さま。
 一人、部屋の隅で限界を迎えていた自分は、潰れた感情のまま、ぽつり、と。「ここから逃げ出したい」と呟いていた。

 言葉にすればもうそれは確定となる。逃げたい、逃げ出したい、耐えられない。感情が後押しする。全てがイヤになり、両親が帰ってこないよう祈りながら飛び出せば、無意識にあの日見た公園にたどり着いていた。
 あの日、憧れた光景がある。わずかに錆びたにおいの遊具に近づく。遊び方は見たことしかない。触れたこともない。風に僅かに揺れるブランコに腰掛けると、遠く。夕焼けが見えて、両親が失望するだろうな、とか。揺れる視界で思い返していた。

「お父さん、お母さん、僕、クラスで友達ができないんだよ。勉強以外の事もやりたいよ」

「何を言うの。勉強さえしていればお前と友達になろうとする子はいくらでもできるんだぞ」
「それに、友達なんて曖昧なものは信じられないわ。……そう言えば、少し成績が落ちていたわよ」

 何度この不毛な会話を続けたのだろう。
 自分の気持ちや願いは両親の想いにかき消される。ただ普通の子のように、友達を作って、一緒に遊んで、楽しく笑って。それすら駄目なのかと考えるたびに、両親にとって俺はどういった存在なのか分からなくなっていた。
 両親はすごいと知っている。何を研究しているのかは分からない。そもそも二人で高速に飛び交う言葉の意味を聞きとる中で、研究という言葉があるから研究者だろうとは思っている。尋ねたことはある。でも、返ってくるのはいつも、「ヘラルドにはまだ早い」だった。

 頑張った。頑張って、褒めてもらおうと思ったのに。まだ頑張らなきゃいけない。ゴールが見えない、先が見えない。頑張る意味だって、期待に沿えるいい子だって証明するためだ。両親の具体性のない未来像に興味だってない。
 でも、今全てを放り投げたら「出来ない子」になってしまう。褒めてもらえない、どうにもできない。自分が求めることに意味がないと知った時。何の為に頑張ったのかも分からなくなって、ぽっかりと吹きすさぶ心ばかりが冷たくて、呆然とする。

 風にあおられるようにブランコが僅かに揺れていた。

「アンタ!! そこアタシの特等席!!」
「……え?」

 大きな声がして思わず顔を上げる。夕日が眩く、視界を赤色に染めた。わずかばかりに見える小さな人影が影の輪郭になり、よく見ようとして目を細める。
 その間に人影はまっすぐこちらに向かってきて、眩しくてなにも見えない自分が乗ってるブランコを鷲掴みにした。

「アンタ、何処の子!? ここらじゃ見ないけど!?」
「あ……」

 影がひとの形になると、その姿を克明にする。
 あの子だ、窓の外で走り回っていた。毎日楽しそうに誰かと遊んで、からからと笑い、跳ねるように駆け出す自由な子。

 どきりと心臓が跳ねる。常にガラス越しにいた存在が、自分に向かって話しかけている。震える指先と緊張で逸る鼓動。どくどくと音が耳の裏で鳴り響くと、喉が詰まってしまって、返事をぐるぐると頭の中で回して、答えは見えなくなった。

「ぼ、……僕……」

 狼狽えて爪先を見ると、明らかに何か言いたげな足元の揺さぶりが見えた。反射的に申し訳なさできゅうっと胸の内が詰まる。思わず「ご、ごめんなさい!」と弾かれたようにブランコから飛び上がった。

 やっぱり、ダメだ。なにも言えない意気地なしが一緒に遊んで、とか言えるはずもない。ずっと気になってたんだ、君の事。一緒にお話ししたいし、なんなら遊んで欲しかったんだ。その言葉が喉の奥で絡まって。でも。ちくり、ちくり、と胸の内側から声がする。

「お前と遊んでもつまんないよ」

 あの日言われた言葉が怖い。もし、拒絶されたらどうしようという感情ばかりが思考に先立つ。それが言葉を詰まらせて無言のままもじもじと足を後退させた。意気地なしだから、このまま公園から帰るしかないと考えた矢先だった。
 存外、強い力に肩を掴まれて立ち止まる。何が起きたかわからなくて、半泣きで固まる。その後ろから、「何帰ろうとしてんのよ」という少女の言葉が、勢い良すぎるストレートで投げつけられた。

「何? アタシが何処の子か聞いてんのに帰る気?」
「あ、え……ぼ、僕、ええと……」
「もじもじすんな! 返事はハキハキしなさいよ!!」
「はい!? はええ……!?」
「ったくしょうがないわね!! このオリビア様がこの公園のルールを教えてあげるわよ!!」
「待っ、ええ!?」

 がしりと手首を力強く掴まれて、そのまま引きずられるように公園に戻される。一方的な言い分と言葉の雨あられにぽかんとするまま自分の肉体は引っ張られる。まずはブランコ、滑り台、鉄棒に引きずられ、教えられるままに気づけば遊んでいた。
 遊んでいるのだ。遊ぼう、と言えなかった僕の気持ちを察したように。まるで振り回すように結構力強い勢いで、「僕」はオリビアという少女と遊んでいたのだ。

 楽しかった。とても。嵐のような女の子に連れられて、無邪気に子どものように公園できゃあきゃあと遊びつくせば、気づけば日は見えなくなった。もう門限を超えて久しい、とっぷりと闇に包まれていた。
 永遠のような一瞬を、「僕」は夢中になっていたのだ。

「楽しかった……」

 ぽつり、と惜しむように呟く。
 恐らく、今日が終わったらもうこんな風に遊べないだろう。だって、毎日のように両親からの期待と圧に喘いでいて、こんなに夢中に遊んだことが発覚すれば咎められるはず。この思い出だけを抱えて日々を苦しむには、人生が長すぎる。
 そんな思いから零れた言葉に、少女は何の気も無しに「じゃあ明日は放課後ね」とシーソーから飛び降りる。

「えっ……?? あ、明日も遊んでくれるの……??」
「はぁ?何言ってるの。これだけ遊んだらアンタはアタシの子分でしょ」
「えっ…………? あっ、ええ……??」

 まるで自分の方が間違っていると言いたげな雰囲気に息を飲む。押しが強いと感じていたけど、自分の葛藤や悩みを吹き飛ばすような言葉の断定だった。
 ……でも、それでも、「僕」はどうしたらいいんだろうと頭を回す。だって、今日帰ったとて両親が何というか分からない。毎日のように勉強をしろ、遊ぶなんていけないことだと言うかもしれない。そうしたら、「僕」はまた首を項垂れてその言葉に従順に教科書を開く。自分の願いや意志を押し殺して、また。

「何? アタシが明日も遊ぼうって言ってるのに遊べないの?」
「…………だって、お父さんとお母さんが勉強を……」
「何それ。オヤブンのアタシが遊ぼうって言ってるのにそんな言い訳するの?」
「ええと……」
「もーー!! まだるっこしいわね!! 遊ぶの!? 遊ばないの!? どっちなの!!!」
「あ、あ、遊ぶ!! 遊んでいいの!?」
「あったり前でしょ!! アタシはなんたってオヤブンなんだから心がとーーーっても広いのよ!!」
「そ、そうなんだ…………」
「……で、アンタ誰なの? 名前は?」
「名前、僕の……」

 あの時、うまく言えなかった。
 あの輝く目の中に自分が映ること。それが何よりも嬉しくて、名前を呼ばれることが喜びで。あの日から。あの日からだ。あの日からずっと、「俺」は変わらずオリビアちゃんの事が好きになっていたのだ。
 彼女に出会わなければ生きてこれなかったし、生きる意味も知らないまま死体のように生きるしかなかっただろう。

 そんな星を、ただ自分のそばに縛りつけるなんてできなかった。だって、あの子は自由にいてこそ輝くのだ。自由に笑い、怒り、悲しみ。近くで居られれば、友達としてそばにいられたら、ただ幸せだったのだ。

「――アタシ、もうヘラルドと遊ばない!!」

 そう直接言われるまでは。

 彼女には夢がある。誰よりも輝くといった夢。そのための足がかりだとは知っている。口癖のように、「何か大きな存在になりたいの」と言う少女の夢は、いつだって星空に輝く一等星のように眩しい。
 今回は珍しく真剣に、「ダンス教室に通いたい」と願い、相変わらず自分はオリビアちゃんの後ろについてくるだけ――のはずだった。

 オリビアちゃんの後ろ。名前すら上手く紡げない自分。照らされたスポットライトは、自分に向けられた。

「――君は逸材だよ!! リズム感覚は優れているし、感情を動きに乗せるのが上手い。君なら、ダンスの業界でトップになれるよ!!」

 褒められて嬉しかった。両親以外の大人は自分に優しい。少しばかり、「望みどおり」に振る舞えば、喜色満面で迎え入れる。
 慣れた動作だった。オリビアちゃんはそんなことを気にせず、いつだってありのままの自分を見てくれた。下手に取り繕う必要なんてなかった。学校で優秀な成績を納めれば、彼女はまるで自分のことのように「さすがアタシの子分ね」と言ってくれたから。

 ……だから、そうしたのに。
 なんでか分からない。何も分からない、理解したくない、何も。
 なんで? どうして? 何か悪いことをしたの? 「僕」は、何を間違えたの?
 そばに、いられるだけなら、よかった、って、何も望まなかったのに。どうして?

 その日のことはよく覚えていない。死にたいほどの痛苦を飲み込んで、必死で考えた頭で浮かんだのは、「自分が自分であること」が駄目なのかと思った。臆病で、弱虫で、意気地なしで、オリビアちゃんの後ろにいるしかできない自分が。
 だから、殺さなきゃと思った。過去の自分を殺さなきゃ。オリビアちゃんにとって不必要な部分を削り落として、研磨して、そうしなきゃ。

 そして、気づくのだ。
 今までの自分は、オリビアちゃんに憧れるだけでいい、と。友達で、遊んでもらえるだけで嬉しくて、楽しくて、それで良かったけど。
 耐えられない、振り払われたら。しがみついて、縋りついても離さないでいないと、「俺」は生きていけない。
 だから、何がなんでも、何を犠牲にしても。はたまた、その輝かしい「夢」も、全て飲み干して、自分の隣にいてもらう。
 好きで。大好きで、君がいない人生を生きていけない。
 ただ、そのために、生きている。


 *

「……………………」

 天井。真っ白だ。薄いピンクのカーテンによって四角に切り取られた光景を真っ先に見やる。
 今、何時だろう。時計を探すが、自分の近くに何もない。あるのはサイドチェストに透明な水差し。白いシーツと固いマットレスだけだ。

 ……自分の寮の部屋じゃないな、と思い。そういえばと意識を失う前のことを思い出した。
 アカデミーは大学相当の研究部門があり、同時に病院もある。恐らくそこか、短時間なら保健室か。自分の居場所に興味などないから、ふ、と息を吐いて身を起こそうとすれば、あちこちが鈍く痛んだ。体を動かすのも辛い。負けた自分はベッドに身を預け、痛む腕を持ち上げれば。ぐるぐるに巻きついた包帯が視界に入ってきた。

「……ハハ、馬鹿みたい」

 こんな満身創痍になるまで暴れて、なんにもない、どうしようもない。ぱたりと手を下ろすと、ベッドのスプリングで情けなく跳ねた。

 あんなに手放したくなくて、必死になったのに、あんな。あんなあっさり、全部なくなった。
 分かってた、オリビアちゃんが嫌がっていることは。俺のやり方が気に入らないことは。でも、じゃあ、だったら。その心を尊重したらよかったと言われても。いや、でも、前例がある。俺は置き去りにされて、またひとりになる。
 ――いや、情けなくしがみついたから、もう、何もなくなったんだ。なんの価値も無くなったんだ。

 笑いが浮かんできて、馬鹿馬鹿しくて消えていく。俺は一体、なんのために。あんなに必死になっていたのだろう?
 精神に引きずられ、全身が奈落に落ちていくような、嫌な感覚がする。息が詰まるように、緩やかに、静かに。俺の生きる意味が、ほどけて消えるような。柔らかく溶けていく。

「……ヘラルド君」
「……………………」

 沈む俺を現実に戻したのは、カーテンの向こう側で恐らく難しい顔をしている担任だった。
 入るよ? の言葉に対して返答する前に、カーテンレールがシャッと音を軋ませた。

「具合はいかがかな?」
「……」

 気の弱そうな担当教員は、俺の感情を無視し「座るね」と勝手にパイプ椅子に腰掛けた。
 何を言うのかもう分かる。この担任は何だって意志が弱い。縋れるものにすぐ縋る。そんな性格が嫌いだったが、ヘラヘラと笑って対応していた。俺はベッドに寝そべり体を起こす素振りを見せないでいる。担当は眉を下げたまま言葉を続ける。

「僕も君の豹変に驚いたよ。君はこんなことをするような子じゃないと思っていたから」
「……」
「少し、話をしないかい? 何か、悩み事でもあるのなら……」
「…………ァ」
「うん?」
「……オリビアちゃんは、もう旅に出ましたか……?」

 一瞬、面食らう。そして、元の表情に戻す。
 滑稽だ。つまらない使命感と義務感、面倒くささを滲ませながら、まるで良い教員のように振る舞うのが。大してそんないい「先生」だったこともないくせに。

「ええと、……ごめんね。それには答えられないんだ。……少なからずできることと言えば、君と面談することだけれども……」
「必要ないですよ」
「そ、そんなことないでしょう。ほ、ほら。君もあんな事があったばかりだし何か聞くよ?」

 聞いてどうする?
 大人が「話を聞く」と言う時は、自分の持論を鼻高々に伝えたい時だけだ。こちらの悩みの本質を解きほぐそうとする気など微塵もない。現に、俺の言葉に応える気はないと断定した口で、模範的で優秀な教員として振舞おうとする。俺の感情を踏み台にして。

「君はまぁ……女性関係のトラブルが多いけど執着しないと思っていたんだけど……」
「先生、俺は貴方の所感など興味がありません。事実を明確に、端的に言っていただけません?」
「えっ……なんか今日イライラしてない? と、とりあえず先生の話を……」
「そうですか、話す気はありませんか。わかりました。出て行ってください」
「え……」
「いつまで突っ立っているんですか? まだ俺が敬語で話している間に出て行ってくれと言いましたよね?」

 威嚇だった。明確な。俺の内情を踏み躙られるのが許せなくて、握り込んだ拳から血が流れそうになるぐらいの激情を飲み込みきれずに怒りを零す。
 まさかの対応にたじろいだ担任が「いや……」「でも……」と言葉を紡ごうとしている。ただ、もうそれも許せない。黙らせるように睨みつけると、慌てて逃げていく担任の背を、舌打ちしたい心地で見送るしかできなかった。

 沈黙。保健医も何か言ってくるかと思っていたけれど、先ほどの応酬に出鼻をくじかれたのか、気づけばひとの気配はなくなっていた。
 再び振ってきた沈黙と孤独。無言で頭を整理しようと枕に頭をぼすんと埋める。埃のにおいが鼻を擽る。くしゃみを零して、もうこのまま眠ろうかと思った。
 眠って、何もかも忘れたい。何もかもなかったことにして、夢の続きに浸りたい。このまま順調に俺の思惑通りに全てが進む続き。

 ごろり、と何回か寝返りを繰り返す。繰り返して、眠れない。ひとつ、ふたつと瞬き。寝すぎて軋んだ身体が起きろと訴えているみたいだ。でも、起きたくない。何も知りたくないし見たくもない。
 暇すぎてふ、と明るい方を見やる。まろいオレンジ色がカーテン越しに差し込んでいた。朝日なのか、夕日なのか。遠く、部活に励む声が遮断しきれず聞こえてくる。きっと、授業を終えた生徒たちの声だろう。

 逃避したかった。してもよかった。
 ……でも、気づいてしまったからには起きなくてはならない。まるで影絵のように映る人型を視認してしまったからには。

「……………………いるんだろう」

「おや、陰鬱な思考に埋没するのは終わりかな」

 悪趣味な、と怒りをこめ犬歯を剥き出しにしてカーテンを勢いよく開いた。そこには、想像したとおりの青年が優雅にコーヒーを啜っていた。
 クレメンテ。俺と、――オリビアちゃんと幼馴染だ。すらりと長い手足と派手な身なりをした青年は、この学校でも有名だった。時々しか会わないけれど、いつでも気障ったらしくて見たくない現実ばかりを突いてくる嫌なやつだった。

「ここのコーヒーは不味い。インスタントにしても質が悪いね。管理が悪いんじゃないかな」
「知るかよ、そんなこと」
「女医だろう、ここの保健医。キミから言えば少しは心象がマシじゃないかな?」
「……喧嘩売ってんの?」
「この程度が? 本気ならもっと真正面から言うに決まってるでしょ」
「…………」
「こら、それも備品だろう。その水差しガラスでできているから壊れるよ。これ以上弁償案件増やすつもり?」

 流れるような皮肉の羅列に、やっぱり気づかないフリをすればよかったかと冷静な自分が叫び出して。いや、気づかなければコーヒーを飲み終わったあたりに皮肉を言ってきていただろう。そういう性格をしているんだ、こいつは。
 痛みで軋む上半身を起こす。血圧がぐらぐらして頭がズキズキする。大して出血してなかったはずだけれど、とこめかみを抑えていると、「ところで話を本題にするんだけれど」と嫌味な男から言葉が飛んできた。

「キミ、無茶な事をしてんだって?」
「…………………………………………………………………………」
「だからあれだけ言ったのに。それだとキミとオリビアの間に徹底的な軋轢が生まれると何度も」
「…………知ったような口を利くな」
「二人の友としての忠告だけれど? 案の定、こんな結果になってどうするつもりなのさ」
「友? …………俺はお前と友達になった記憶なんてないよ」
「友達になるのって、宣言は必要かな。まあ、本音を話し合える時点でキミのつまらないお知り合い達とは違っていると思うけれどね」

 こんな結果。こんな結果って、あの決闘騒ぎの事か。
 いつ制定されたか分からない古い校則を引っ張ってきて、見世物のように大衆の前に引きずり出されたオリビアちゃんと俺。普通のバトルならば勝算はあった。――普通ならば。
 でも、オリビアちゃんはバトルコートに立たなかった。まっすぐ天に手を伸ばして、監督役の先生に告げたのだ。代理を立てる、と。

 現れたのはすらりとした黒髪の男だ。歳は恐らく、そう変わらない。不格好で舌足らずなパルデア語で、恐らく外国から来たのだろうとしか分からない。ひょろりとして大して強そうに見えなくて、会場にいる全員が何故あんなのを代理に? と考えるほどだった。
 ――そうだ、慢心していた。バトル学も成績優秀と言われ続けていたから、自分は強いと思っていた。倒せる、弱そう、大したことないだろうとしか考えていなかった。一撃で沈めると構えた瞬間だった。

 首筋の裏が冷たくなった。
 風が吹いて、世界は暗転した。
 何が起きたか分からないまま。無様に地面に転がっていて、「は?」と言葉が漏れ出てた。

 後で聞いた話だ。あの黒髪の青年はオリビアちゃんから正式に護衛として雇われた「傭兵」だそうで。
 パルデアには傭兵が必要な事態というのがほぼ無いから、その強さを知らなかった。今でも尚小規模の紛争が続くイッシュや治安が不安定なカロスを渡り歩いてきた、つまり「ひと殺しのプロ」だったのだ。

 それだけ嫌だったんだ。俺のことが。死んでも構わないと思われているほどに。

 シーツを握りしめる。考えたら考えるほど、思考が暗くなる。泣きたいほどの感情を飲み込めなくて、頭痛が酷くなるほど奥歯を噛み締める。
 そこまでとは思っていなかった。嫌だと思われていたのは察していた。このままだと望みがないのもわかっていた。でも、諦めたら俺の心が死ぬ。諦めるということは最初から選択肢になかったけれど、こんな形で刃を突き付けられると、流石に本気で心が折れていた。

「………………なんだか、すごい最悪な方向に頭が回っていないかな」
「……なんなんだよ……」

 思考に冷や水をぶっかけるように、つまらなさそうに髪の毛を弄びながら口を挟んでくる。中途半端に現実に引き戻されて再び脳みそがイライラと沸騰し始め、頭痛で軋む。本当に、こいつと話すのは嫌いなんだと再確認するように、クレメンテは淡々と口を開く。

「キミさ、夢を見ないでしょ」
「………………ハァ?」
「オリビアがキミに応えようとしないのは、夢があるから。その夢を邪魔するのならそりゃあ排除しようとする。折り合いが悪いって何度も言ったのを覚えていないかな? 今はやめておけ、見守っていく方向にしなよって」
「それはお前が俺を邪魔したかっただけだろ……」
「友達なのにそんな意地悪はしないよ。だけどもボクはオリビアとも友達でもある。感情の方向性が違っていて絡まっているのを解きほぐそうとしただけさ。それなのにキミは目を瞑り続けて、こんな結果になったってこと」
「…………………………」

 夢を見ない。見た事はない。あるのは、オリビアちゃんとどうにかして共に在れることの未来予想図。生きていくための、必死の足掻き。夢というより、生存欲求に近い。そうでないといられないから。それを夢というには切実すぎるし、何より俺にそこまでの心の余裕はどこにもなかった。
 自身の承認欲求の為に走る姿を、「ああはなれない」と見切りをつけて、目を塞いだ。それが眩いことだと、オリビアちゃんを見て知っていたとしても。夢を見られるほど、自分を信じられた彼らが。夢を見ることができるほど、世界を眩いものだと信じられた彼らが――眩しくて、妬ましい。

「…………じゃあさ、どうすればよかったんだよ……」
「だからそれは……」
「うるさい!!」

 ガシャン、と音がした。クレメンテの頬に一筋の赤い線が走っていた。既に中身はぶちまけられて、保健室の戸棚が水浸しになっていた。
 ぶつけるつもりだった。傷つけばいい、とも。でも、器用に避けたクレメンテは紡ごうとした言葉を閉ざして、じっと見開かれた瞳で俺を見ていた。

「どいつもこいつもうるせぇんだよ!! 好き勝手言いやがってッ……!! 俺はこうするしかできなかった!! こうしかできなかった!! お前らの虫唾が走る御高説なんて聞きたくもない!! 僕のこと何も知らないくせに……ッ!! だったら……だったら、僕はどうやったら生きられたっていうんだよ……ッ!!」

 無様だった。本当に。地面に這いつくばり、オリビアちゃんを見送ったのと同じように。
 感情のまま叫び散らして顔を覆って縮こまる。頭が痛い。身体が熱い。涙が止まらない。
 何も知らない癖に。何も知らない癖に!! 俺がどうしてこうなったかも、何も分からないくせに!!

 怒りと悔しさと、悲しみ。渦巻く感情が腹の奥で煮えたぎって、涙が止まらなかった。
 既に夕日は陰っていた。部活をする生徒たちの声は遠くなり聞こえなくなっていた。まろいオレンジは消え、あるのはただの暗闇だった。

 長い沈黙の中、耳朶に入るのは自身の嗚咽だった。

「……キミに何かあるのは察していたけれど……」

 ぽつり、と言葉が切り裂かれる。静かに、普段の皮肉気な言葉とは違った、小声で語りかけるような優しい響きだった。ひたすら、それが腹立たしい。

「キミが語らない限り、ボクらは知ることなど出来ない」
「…………」
「キミが語らない事を選んだのはボクらの力不足だ。それとも、関係性の不足かな。…………だけど、キミはそれを選んだ。選んだことの責任はキミにある。口を噤ませた責任はボクらだ。……だから、キミがどうしたいのかはまた聞こう。その時また、ゆっくりと話そう」
「………………」

 誰かの足音がするからもう行くね、と目の前の男は軽やかに椅子から立ち上がる。そして、扉から出ればいいものを開け放した窓からひらりと飛び降り去っていった。追って、嵐のような足音と話し声が保健室の扉越しにもう聞こえてきていていた。
 ず、と鼻水を啜る。きっと今、酷い顔をしている。
 面倒臭い。何も話しかけられたくない。今、もう眠りたい。怪我人を休ませる気がない奴らに虫唾が走りながら、カーテンレールを軋ませて薄っぺらい布を閉めた。

 *

「……は? 退学届け?」
「……」
「えっ、えーっと、ヘラルドくん……? そ、そこまで思いつめなくてもいいんじゃないかなあ!? まあ先日はともかく、先日はともかくだけど!! 君、何も悪いことしてないでしょ!? ちょっ、ちょーっとこれは考えさせてもらってもいいかなあ!! あっ、そうだっ!! お部屋で休んできなよ!! これは先生預かるからねッ!?」

 ピシャン、と。追い出されるように職員室を締め切られてしまった。多少は予測していたとは言え、ここまで予想通りだと笑いも出ない。
 周囲がざわざわと噂として波及していた。昔はそういったことにも気をつけて振舞っていたけれど、今となってはどうだっていい。まったく、全てがくだらない。
 俺は踵を返してその場を後にした。歩を進めるたび、ひとの波がまるで神話のように左右に割れていった。

 ――あれから考えた。俺はどうしたいのか、ということを。
 本音を言えば、今すぐオリビアちゃんを追いかけたい。追いかけて、縋って、見捨てないでと泣き叫びたいぐらいだ。
 だけど、それは悪手だ。彼女からの返答は既に突き付けられていた。明確なNOを受け入れられなくて、ただ俺が無様を晒しているだけ。
 考えていることは、何もない。遠くに行きたい、消えたい、どこかにいなくなりたい。誰も知らない場所に行きたかった。ぐるぐると冴えた目でシーツに包まれて考えついた果てだった。
 オリビアちゃんの側にいられないなら、死んだ方がマシだ。どうせ、死んだように生きてた続きを目が眩んでいただけ。だから、もうどうだっていい。

 仕方ない、ちゃんと受理されてから去ろうと思っていたけどアレではどうのこうの理由をつけて引き延ばされるだけだろう。
 自室に戻り、荷物を纏めよう。どこか冷静に全てを俯瞰している自我がそうやって俺の足を押して歩いてる最中だった。

 数メートル先。顔見知りが心底困ったような顔をして立っているのが見える。……プリモ先輩とイシドロ先輩だ。何故、あんな表情なのか。推察することはできない。怪訝な顔をしていると、向こうも気づいたのだろう、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
 道を変えるか、と足を止めて方向転換した矢先だった。

「――お待ちなさい!!」

 知らない女の、ひどく喧しい声が廊下に響き渡っていた。


もうひとつの開幕