イリデッセンス・カラーシフト
4.エディターのウロボロス
鍵盤。指を置いて、押す。弦が弾かれ、広い防音室で高い音が鳴り響く。脳に広がる五線譜を鍵盤の上でなぞる。静かに語りかけるようなセレナーデ。悲しみを歌い上げる作者の言葉を音符で拾い上げ、音楽に織り込むこの行為を好んでいた。
どちゃり、と肉が潰れる音がした。
窓の向こう、四階という高さから落ちた肉の器がどうなっているかなど、想像に難くない。
寝ても覚めても、その音が耳の奥でこびりついて消えない。
音を掻き鳴らして、悲しみの声が怒鳴り上げるような不快な響きになっても。
窓の外。見えない誰かが、自由落下する。
誰か、なんてものじゃない。わたくしは、それが「誰」だなんて、とうに知っている。黒髪が散らばる音を、わたくしは頭の中で繰り返すのだ。
ピアノを弾く手を止めた。楽譜を見なくても弾けるはずだった。何度も練習して、小さい頃から手になじみがある練習用の楽譜。音が次第にか細くなって、するりと手をピアノから外す。酷い無音が、耳に痛いほど響く。広い一人部屋が異質なものに感じてしまうようだった。
壊れたレコードは頭の中に。しっとりと歌い上げられるセレナーデは音が汚され、集中ができない。奏でる和音に異物が挟まり、音が潰れる。するりと手を鍵盤から滑り落し、ぼうっと窓を見やる。
――目の奥の残像が見える。オレンジ色の窓の向こう。ひとりの少女が、怒りのままに身を投げて、「してやった」と顔をした。時に空気が絡め取られ、無音の中でゆっくりと窓の向こう側に掻き消えてゆく。再生。幾度も繰り返される光景が、目を閉じても見えてしまう。
あの日見えなかった少女の顔が、窓の向こうに翳って、消えて。また、音が耳の裏で――どちゃり。
「……ッ!!」
寒気がして自分を抱き締めた。
背を刺される心地だ。お前の罪だと叫ばれるような、後ろ指をさされるような。
呟く。何度も。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
許しを乞うたところで、彼女はもういないのだ。許される段階を過ぎているのなら、許されるはずもない。毎日のように頭を抱えて、小さくなって、怖くて震えながら繰り返される音を聞く。
――どちゃり、どちゃり、どちゃり。
お前はひとを、殺そうとしたのだと。
「あたしの終わりを見届けろ――そして、一生、ひと殺しだという罪に苛まれ続けろ!!」
掛け値なしの憎悪をぶつけられ、硬直した自分と聞こえてくる耳の奥にこびりついた音。遅れて、周囲の子女たちの甲高い悲鳴。
荒い。息。寒い。全身が。もう夏を目前にしたというのに、わたくしの身体はあまりの冷たさに指先まで凍りついた。
罪? わたくしが? ひとを殺した?
違う、だって、彼女は目の前から飛び降りた。わたくしが背を押したわけでもないのに。
でも、――でも。凍える爪先が知っている。その日、自分は罪人なのだと叫ばれたことが。正しいことだと。
わたくしはあの日から動けないでいる。閉じこもり、目も耳も言葉すら塞いで、罪であることを認められず、蹲って部屋の中。未だに一歩も歩き出せないまま、既に月日が大分流れてしまっていた。
わたくしが彼女を追い詰めた。ただ、明瞭な罪業だけを背負わされ贖罪の場も用意されず、自分はこの部屋にいる。
寒くなった爪先がひとつも動かなくなる。ピアノの音が消えてしまうと、耳の奥で壊れたレコードのように、少女の叫びが反響する。広い部屋の中で残像ばかりがわたくしを見つめていた。
*
――始まりはなんだったか。
幼馴染が唐突に、イッシュに行くだなんて言い出したからか。周りに親しい友も居なかったわたくしは、泣いて駄々を捏ねて、結果相手を怒らせて喧嘩して。ついには連絡も取れなくなってしまった。
そうやってひとりになって寂しいと見返してやるをないまぜにして、「わたくし、学校でお友達たくさんつくりますわ!!」と誓ったのだ。
そんなわたくしを憐れんだのか、いつもは鬼のように厳しいコルドバお姉様すら、仕方ないと許してくださり、学園生活が始まったのだ。
新しい環境で知らないひとと出逢い、楽しく青春を過ごす。わたくしにとって絵本の向こう側のような出来事だった。学校に通う必要などない、と家族は言っていた。けれど、わたくしにとって未知の領域だったその場所は、まばゆい夢想の只中にあった。
だから。夢を見て、無謀にも飛び込んだのだ。何も知ろうとしないまま。
ありとあらゆる階級の学生がいたが、遅れてやって来たわたくしはこの空気についていけるのかという緊張を抱えていた。でも、差し伸べられた多くの手があった。多くの生徒が気にかけてくれたから最初の滑り出しは良好だった。
――良好だと、思う。わたくしは、そう思っていたけれど。
次第に様相が変わりだしたのは通い始めて三ヶ月ほど経った頃だろうか。
わたくしのお気に入りの万年筆が紛失する事件が起きた。他のものならば買い直せばよいと思ったけれど、幼馴染とお揃いでよく学習するようにと互いの両親が選びプレゼントされたもの。
流石に焦ったわたくしは、学校のお友達にも尋ねたのだ。
「わたくしの大事な万年筆が無くなってしまったの。どこかで見ませんでした?」
漣が、入った。少なくともわたくしはそれを感じた。少ない沈黙を切り裂くように、わたくしのお友達のひとりが、声を上げた。
「私、見たの!! ガラルからの留学生が、セイナダさんのポーチを探っていたわ!!」
注がれたのは、ガラルからの留学生である、一風変わった女子生徒だ。
パルデアで見るニャース達と風貌が違う、毛先が広がった黒髪の少女は、目を丸くしてわたくしたちを見ていた。
「な、何!? あ、あたしを疑ってるの!? なんであたしがそんなことしなきゃなんないわけ!?」
「慌てるなんて怪しいわ!! 犯人でなければ慌てたりしないもの!! だったらあなたの荷物を見せてみなさいよ!!」
「なっ、やめろよ――」
がしゃん、と乱暴な音がした。ひっくり返された少女の鞄。散乱する使い込まれたノートと参考書。ポーチもぼろぼろで、出てきたペンも使い込まれて煤けていた。
少女が叫びながら荷物を掻き集める最中、かちゃんと。音がして。わたくしの黒い万年筆が床に転がり落ちていた。
「これは……わたくしの……」
「ああ!! やはり犯人はあなたでしたのね、イライザさん!!」
「やはり、海賊なんかの子孫は手癖が悪いのですね!!」
「ち、違う!! あたしはあんたのものなんか欲しくない!! ていうかそんな万年筆なんか初めて見たんだ、あたしは――」
酷い言い訳だ。現にわたくしの万年筆は彼女の荷物から出てきた。大切で大事な万年筆の、わたくしのサインには消えない傷が入っていた。
怒りで震えるわたくしは、唇を震わせ、「わたくし、怒りましたわ……!!」と呟いていた。
「……あなたの気の迷いはあるかもしれません。ですが、あなたはわたくしの大事なものを傷つけましたわ。……せめて、今、謝罪していただければ許しますわ」
「……は?」
「簡単なことですわ! 悪いことをしたらごめんなさい、です!! あなたのご両親はそんなこともあなたに教えませんでしたの!?」
「――ッッ!! お前ッ……!!」
一瞬、わたくしの首筋の後ろが寒くなった。
ざあ、と全身の皮膚が泡立つ。怒気、殺気といった負の感情。叩きつけられたのはそういったものの塊だ。
間違ったことは言っていないはずだ。正しいことしか告げていない。なのに、どうして彼女はこんなにも怒ってわたくしを睨みつけているの?
心の奥底の幼いわたくしが一瞬、言葉に詰まろうとして。周囲を見渡して、不安げな様子を見守るお友達が見えて。いいえ、いいえ! と弱虫なわたくしを掻き消した。
「いいこと!? イライザさん、あなたはいけないことをしました! わたくし、諦めませんから!! きっとあなたを改心させてみせますわ!!」
それがわたくしと彼女の関わりの始まりだった。
事あるごとに話しかけて、何か悪さをしないか見張る。あの万年筆の件を謝罪してもらう。ただそれだけのきっかけで、わたくしはイライザさんに話しかけるを繰り返した。
「関わんなよッ!! いい加減にしろよ!! あたしはやってない!! なんなら、言い出したアンタのお友達とやらにちゃんと話を聞いてみろ!!」
「まぁっ! どうして? 全く関係のないわたくしのお友達を疑うなんて……!!」
幾度と繰り返される言葉の応酬に、わたくしは負けず嫌いで言い返す。彼女のポーチから出てきたのは事実だ。色々と使い込まれ、あまり文房具も持っていないようだったし、謝ってもらえれば新しいペンならばいくらでも差し上げるのに。
ただそう思って告げた言葉に、彼女は全く受け入れることも謝罪する気もなく、一言。
「反吐が出るんだよ!! お貴族様の仲良しごっこに取り巻きとのお友達ごっこなんか……!! あたしが不愉快かもだけど近寄るな!! お前らのせいであたしは……!!」
決定的な言葉を飲み込み、彼女は奥歯を噛み締めながら強く一本の線を引く。
許さない、と。入り込むな、と。全身で、言葉で。わたくしを真っ向に拒絶した。
衝撃だった。わたくしにとって、最初から切り捨てられることなんて、初めての経験だった。
牙を剥き出し顔を歪めて、わたくしを敵と見做す否定的な感情が。表情が。わたくしの弱虫を切り裂くように見つめている。
負けるわけにはいかなかった。わたくしはお友達を弾劾しようとする彼女に負けてはならない。間違えたのは彼女だから。わたくしが被害に及ぶのならばどうとでもなるけれど、お友達を悪し様に言われて頷くわけにはいかない。
だって、物語にはそうあった。信じることは輝かしいことだ。わたくしは今、正しいことをしているという自負で、彼女に向き合い続けた。
そんな日々を送る、ある日のことだった。
「……やりすぎでは、ないのでしょうか」
わたくしの前に、ひとりの女子生徒が身体を震わせて立っている。神に赦しを乞うように、固く握りしめた手のひらに、突き立てた爪が白くなっていた。
「……セイナダさま、どうか、イライザさんを許してあげてくれませんか。流石に……流石に……あんな、あんな……!!」
「まぁ、様なんてつけなくてもよろしいのに! 大丈夫です、お話しを伺いますよ?」
「…………………………でしたら、私の話を聞いて、どうか……どうか、叶えてくれませんか。イライザさんへのあの仕打ちは、やりすぎではないのでしょうか……?」
「……? ええと……おっしゃる意味が……」
まるで、自分が断頭台に立っているかのようだった。頭の先からつま先まで。小動物のように震えながら懇願する少女の願いの意味が、わからない。
わたくしが何を許すというのだろう。わたくしが、何をやりすぎたというのだろう? 分からなくて、わたくしは困った顔でお友達達をチラリと見やると、ニコリと笑顔が帰ってきた。
「もう、許してあげてください! た、確かにイライザさんはセイナダさまの目に不愉快に写ったかもしれませんが、彼女は決して――」
「まあ、いけないわ。セイナダさんはただ、教育的指導をしているだけなのよ? そうおっしゃられると、セイナダさんが困ってしまうわ」
「ヒィッ……!!」
脱兎、とはあのような姿だろう。にこやかに穏やかに語りかけるお友達の言葉に大袈裟に怯えて逃げていく背を見つめて――わたくしは一言。
「…………皆さま、どうしたのかしら?」
まるで世界の中心でただひとり。何も理解していないままに呟いた。
わたくしは、気づかなかった。
気づけば、クラスの人数が減っていて。気づけば、担当教員の入れ替わりが何回も起きて。
――気づけば、わたくしの周りにいるお友達は、みんな同じような笑顔を貼り付けていることに。
何も、気づきはしなかった。
*
わたくしは半年ほど、そうやって過ごした。
お友達がいて、クラスは楽しくて、明るくて。皆さまわたくしに親切だから、笑って授業を受けて。楽しくて、楽しいと思っていたある日のことだった。
廊下の先。ひとりの少女が立っている。
汚れた水をひっくり返したのか、ぽたぽたと髪の毛から雫を垂らし、上履きを何故履いていないのか分からない素足は擦り傷や打ち身まみれだ。
一目で誰だか分からないけれど、濡れて余計に分厚くなった前髪の隙間から、暗い眼光がわたくしを射抜いた。
「……イライザさん!? ど、どうしたんですかその格好は……!?」
「…………………………」
「ええと、上履きはどうされたのです? それにずぶ濡れですし……転ばれたのですか? 着替えは――」
「…………………………ハ、こんな時まで自分は何もやってないって聖人君子のツラかよ」
「えっ……?」
どうして、そんな目でわたくしを見るの?
どうして、そんな――憎悪と敵意に塗れた目で、わたくしを見るの?
ぺたり、と彼女の素足が廊下を踏み締める。お友達達が「着替えてきたらどうです?」と告げているのを無視して、一歩。一歩。一歩。
目が、合う。
「お前らさぁ、こんな下卑た真似をしておいて自分は高潔なんて言いやがって」
「あ、の……」
「あたしがこんな目に遭っていてもまるで知りませんってツラをしながら裏で操ってて」
「イライザさん、どうし――」
獰猛な獣に喉笛を食い破られた。
気が、した。
わたくしの息は急激に詰まり、何が起きたか分からないまま、ぐらつく視界とお友達の悲鳴を耳元に聞く。
「醜悪だよ。お前。知らないフリしてれば許されるなんて――思うなよ、下衆野郎」
「か、ぁ――、は、」
急激に息が気道を通り、突き飛ばされたわたくしが次に見た光景は。
あの日から見る、何度も繰り返す。笑いながら、憎しみをこめてわたくしを見下ろし。窓の向こうに消えていく黒髪の少女だった。
耳を劈くのは悲鳴。遅れて、届く。
――ぐしゃり、という音。
わたくしは、わたくしは――。ただ、突き飛ばされたままの蹲った態勢で。何が起きたのか分からない、投げつけられた憎悪に混乱した現実だった。
なんで? なんで? わたくし、なんで、こんな目に?
わたくしは言葉を失いはくはくと空を食みながら慌ててお友達達を見やり――目を逸らされた。
「これは、一体――」
騒ぎを聞きつけた教職員達が走ってくる。
わたくしは混乱したまま、どうにかイライザさんが飛び降りたことを説明――。
「私達は悪くないわ!! セイナダお嬢様のご意志に従っただけです!!」
できなかった。
鈍器で頭を殴られたような心地だった。
わたくし、そんなこと言っていない。と、言うか、何もやっていない。
わたくし、何も悪くないのに、どうして?
お友達達が皆こぞってわたくしのせいにした。わたくしの意志に従い、イライザさんを教育的指導したのだと言い募り、わたくしは、わたくしは――!!
「それは、我が家を敵に回すという意志表明でよろしいですね?」
す、と音もなくわたくしの背後から影がかかる。
呆然とするわたくしを立たせたその手は、わたくしの世話役である爺やのものだった。
よろけながら立ち上がるわたくしの耳元に、爺やはそっと「お嬢様、ここは爺やにお任せを」と告げ、騒ぎの最中を横切っていく。
「ああ、そうです。お嬢様方、お早くご帰宅されますよう。我が家の調査員が、じっくりとあなた方の素行を確認させていただきます。――あなたがたが、我々のセイナダ様に対してどんな無礼を働いたか、全てを」
爺やがそう告げたことは、聞こえなかった。
*
「セイナダちゃん!! 大丈夫だったのかしら!? 怖かったでしょう、ゆーっくり休みなさい!」
わたくしはその足で寮ではなく家に戻されていた。
何が起きたかは既に爺やが説明したのだろう、両親はわたくしを撫でまわし「もう大丈夫!」と励ますように頭を撫でた。
少し、幼い子のように扱われてムッとする気持ちも湧かないでもない。だけど、それ以上に。わたくしは安堵した。――わたくしは、何も。と。
無言のわたくしをソファーに座らせ、温かいミルクを振る舞われる。大変な目にあったわたくしを労る気持ちが嬉しくて涙が出そうになった瞬間。
激しい音と共に扉が開かれ。そこには、我が家で一番恐ろしい存在――コルドバお姉様がヒールを鳴らして立っていた。
「こ、コルドバちゃん……」
「……母上。あまりセイナダを甘やかさないでいただきたい」
冷然とした言葉に、わたくしの背中に冷たいものが滑り落ちる。責められる、怒られる、という確信が背筋を震わせた。
「コルドバちゃん……どうか責めないであげて……。セイナダちゃんもつらかったのよ?」
「いえ、なりません。事の重大さに反比例してセイナダは何も理解していない。くだらない感傷で蹲るなら家から出すべきではなかった」
「……お、お姉様…………」
「今すぐ執務室に来なさい。……目を逸らして逃げるのならば、二度と学校に通いたいなど我儘は聞かん」
乾燥した唇が震えた。
お姉様はこれ以上ないほど怒っていらっしゃる。剣呑な雰囲気で喉が詰まる。それでも、逃げることなど許されない。わたくしは掠れた声で「はい」と返事をした。
処刑台に立つ死刑囚とは、こんな心地なんだろうか。幼い頃と比べたら近くなったはずの目線が、聳え立つ山のよう。バクバクと打つ心臓を止められない、恐ろしくて泣き出したい。
お姉様がわたくしを執務室に呼び出す時は、いつだってお叱りになるときだった。幼馴染と遊びがすぎて行方不明になりかけた時、我儘を言って買っていただいたものが世界にひとつしかない貴重品だったり。学校に行きたいとお姉様を説得した時。あまり楽しい思い出はないためか、全身がガチガチに固まって動けない。
荒く浅く息をするわたくしは、お姉様の言葉を待った。
「……やってくれたな」
「こ、コルドバお姉様……わ、わたくしは……」
「セイナダ、私は言ったな。立ち振る舞いに気をつけろ、と。私達は簡単にひとを操れる立場なんだ、と」
「わ、わたくし、そんなつもりは……お友達も困っていらっしゃって……」
「ハ! 友達? ……友達だと?」
「は、はい……」
音がした。机を殴りつける音だ。雷鳴のような衝撃が走り、わたくしは思わず力が抜けて座り込む。膝が恐怖で笑っている。
――ものすごく、怒っている。幼馴染と無茶をしたあの日よりも、ずっと。怖すぎて喉の奥が引き攣った音を出す。顔が既に濡れていた。
「お前をいいように扱い、自分達の目障りな奴を始末させる低脳を友人と呼ぶなら、私はそんな常識滅びた方がいいと思うがね」
「か、彼女達はそんなんじゃ――」
「セイナダ。お前の万年筆を盗んだのはお前の言う友人だ」
「……………………………………えっ?」
最早何度目かわからない、言葉で殴られるを体感する。がつん、と常識がひっくり返り、頭の奥がジンジンと霞む。
お姉様は厳しいが、わたくしに嘘はつかない。だけど、嘘であって欲しいと、胸の奥が、締め上がる。
「そ、そんなはずありませんわ……! わ、わたくし、だって……この目で……」
「腹芸が出来ないお前を都合よく動かすなら無実の学生の鞄に入れたんだろうよ」
「そんな……そんなはず……!」
「セバスチャン」
「ここに」
相変わらず物音立てず現れたセバスチャンは、わたくしの目に分かりやすいようにDVDプレイヤーと、「アカデミー164番監視カメラ」と書かれたディスクを取り出した。ディスクに記載された日付は、わたくしの万年筆が紛失された日。
ディスクの封にある印には見覚えがある。アカデミー理事であるバルセロナ氏のもので、コルドバお姉様と同じく四天王の一角その人の証明印であり、偽造などできない一点ものだ。
それが、アカデミーの監視カメラであることを証明し。
目の前で流される監視カメラの荒い映像には、確かに。わたくしの側で助言をしてくれていた彼女の姿が映っていた。
その彼女が、わたくしの荷物を漁り。万年筆を手に取って、イライザさんのペンケースに入れるまでの一連が、全て。
「あ……そん……わたくし、だって……そんなはず……!!」
「なんだ、お前は今まで教育を施してもらったセバスチャンすら疑うか?」
「だっ、て……わたくし……じゃあ……!!」
「そうだ。セイナダ。お前は幼い。学校なんぞ行ったらこんな風に都合よく使われる。……学べてよかったな。お前の言う友人だというものは、こんなものだろう」
とん、とん、とコルドバお姉様の指が机を叩く。
お姉様の苛立ちがわたくしの恐怖になって伝播する。わたくしの思考の遅さを責めて立てるような緊張感が、出したくない答えを滑り出した。
「わ、わたくし、お友達だと思っていたのに騙されたんですの……?」
「……………………ハァ。だから言っただろう。立場を考えろと、な!」
「ヒィッ!!」
ついに机が真っ二つに割れた。拳を受け止めきれなかった衝撃がわたくしにも届いて、頭を抱えて蹲る。
わたくしは、わたくしは!!
だったら、わたくしは、騙されて全くの無実のひとを責め立てたというの……!?
「いいか、セイナダ!! お前は愚かしさから騙され権力を振るった!! 悪い形にだ!! 我が家の名に泥を塗ったんだ!!」
「あ……あ……」
「そして!! 何より!! お前の行為は多くの民の損失を招いた!! 今回飛び降りた少女は全くの無実で!! お前が!! 追い詰めたんだ!!」
「そんな……そんな、つもり……なかっ、……!!」
「愚か者めが!! 頼る人員も他人を見る目もない時点で社交の場に出ると言うことはこういうことだ!!」
「あ………………………………あ、あ………………」
わたくしは、ただ。震えて打ちのめされるしかできない。
騙されたこともショックだが、何より罪のないイライザさんを悪人と決めつけて、改心しろと迫ったのだ。
改心するもなにも、罪がないのに償うものなど何もないじゃないか!!
「……あの少女は一命を取り留めた。我が家最高の医療を施した後は謝礼金と口止め料をおって支払う。怨みがあるだろうが、お前の経歴に泥を塗るわけにはいかないからな」
「……えっ?」
「つまり、口を閉ざしてもらう予定だ。被害者と、……まぁ、お前の友達だったやつらも永遠に口を閉ざしてもらうんだが」
ガラガラとお姉様は邪魔くさそうに崩れた執務机の破片を蹴飛ばしつつ、気怠げにそんなことを言う。
口を閉ざす。わたくしの後ろ暗さを暗闇に投げ捨てる時、お姉様はそんな言い方をする。お金を握らせて、わたくしの罪を葬り去る気だ。
そんなの、そんなの、わたくしのこの罪悪感を、無かったことにするの……?
「わたくし、謝らなきゃ……」
「謝る?」
「悪いことをしたら、謝らなければならないでしょう……? だから……」
「必要ない」
「えっ?」
「必要ない。お前はあの少女と互いに接近禁止令を出す。近寄る必要もない。お前はさっさとこのことを教訓にするんだな」
「えっ……………………………………?」
謝罪すらさせてもらえないというの?
わたくしが固まるのを後目に、お姉様は足を組み直して鋭い眼光をさらに細める。あまりの迫力に、喉の奥がきゅっと引き攣った。
「謝罪したいのか」
「……はい」
「いいか、これは温情だ。二度と彼女に会おうとするな。謝罪なんかするな。分かったか」
「でも、わたくし――」
「黙れ!! 理由すら分からないのにごめんなさいで済ませるなど私が許さんと言っている!!」
「ヒィッ!!」
踏み鳴らした床がひどい軋みの音を立てる。
わたくしは尻餅をついたまま、震えてお姉様の判決を待つ。
――お姉様のやることは正しい。正しいから、何故謝罪してはならないか教えてほしい。そうすれば、わたくしは正しく振る舞える。なのに、お姉様は言わない。言葉にしなければ伝わらないものを、言葉にしないで伝えようとする。
何故、どうして。わたくしの疑問は、お姉様の怒りの言葉に封殺される。……何も分からないわたくしは、震えて俯き、唇を噛むしかできなかった。
「それとセイナダ、必要ならば退学手続きもできるからな」
「た、退学!?」
「なんだ、お前。それでも学校に行く気なのか?」
「だ、だって、わたくしはお友達を作るために……」
「………………………………あんな目にあったのにまだその寝言を言うか」
「寝言なんかじゃ――」
「――寝言だ。我々の身分に友人という存在は付随されない」
乾いた言葉が喉の奥から滑り落ちた。呻くような、戸惑う一文字を。
お姉様はわたくしを見ている。相変わらず冷たく感情がないかんばせ。揺らがない瞳が力強く、わたくしはただ、声を失って目を逸らした。
「………………何故、そんな、冷たいことを……」
「…………………………セイナダ、お前がそう思うのならばそれでいい」
「なんですの、それは」
「……………………もういい。その気になれば言え」
「そんな日は来ませんわ!」
わたくしは弾かれたように顔を上げ、お尻の埃を叩いて足早に部屋を出た。
これ以上明確な答えがないお説教はまっぴらごめんだった。逃げ出すように走り去るわたくしの背を爺やが追い、執務室の扉は厳かに閉められた。
「甘いな。お前は。あんな事件の後、学校に行けるとでも思っていたのか」
お姉様の、冷たいながら痛ましいものを見るような言葉には、気づかないふりをして。
*
あの騒動からひと月が経っていた。
本当はもっと早く来るつもりだった。しかし、両親がわたくしを心配して家に引き留めたのだ。過保護すぎると不満を抱えながらも、その月日はわたくしの中の衝撃を和らげ忘却させるには十分だった。
だからこそ、わたくしはある事実に気づいたのだ。
わたくしには、お友達がいない。そうだと思っていた彼女達は、わたくしの家柄しか見ていなかったのだ。わたくし自身に価値を見出されていなかったのだ。
わたくしは孤独だ。
そう、心機一転せねばならない。わたくしは、ここから「お友達」を作るために再度覚悟を決めて、教室の扉を開けた。
しん、と。水を打ったような静けさ。
わたくしが扉を開けるまで、それなりにざわざわとしていた声が、ふっつりと消えた。
「ぁ………………」
目線が、怖い。
わたくしが席に座るまで、誰も言葉を発しない。
周りにいたお友達だった彼女たちは……机が下げられていた。コルドバお姉様が対処すると言っていたのを思い出した。
……転校したのだろうか。わたくしに関わらぬよう。それとも、お姉様がお金を握らせて追い出したのだろうか。
どちらにせよ、わたくしの持つ権威が彼女達を排斥させたことは想像に難くなかった。
ひどく響き渡る沈黙の中、椅子を引く音が響いた。
ざわざわと、扉と窓の向こうから声がする。
今、この教室は静寂以外が許されず。椅子を引く音すら、怯えながらするような始末だった。
がらり、と扉が開く音がした。顔を上げると、わたくしが休学する前にいた担任の教員だった。
気怠そうに入って挨拶をしようと顔をあげた彼は、わたくしの姿を見てびくりと固まる。慌てて衣類を正し、カチコチになった手足を振りながら、教団の前に不出来な精密機械のように立っていた。
「…………ああ、えっと………………。セイナダさん、お久しぶりに戻られたんですね。生徒一同、心配しておりましたので……………………」
「あ、あっ…………はい、戻りましたわ。本日から再びよろしくお願いします」
沈黙。息を潜めるとはこういったことのように、全員が自分の存在を殺している。
和やかさはもう、そこにはなかった。冷たい緊張感が薄氷の上に走ったような。わたくしの言葉に、誰も返答をしなかった。
何故、を。考える。クラスの雰囲気がこんなに悪化するなんて、を思い。確かにクラスメイトが死にかけたという大事件の後ならばこうなると、思考が脳の中を滑っていく。
担任の教員まで震える指先を隠さないまま、「……ええと、ホームルームをします」と不恰好な敬語を紡いでいた。
ノートと筆箱と、教科書。ああ、そう。教科書を取り出そうとして、ふと。わたくしは次の授業を知らないな、と思った。忘れ物があれば爺やに届けてもらうにしろ、確認しなければとわたくしは隣の生徒の肩をとても軽く叩いた。
「ひっ」
ばさばさとノートが机から滑り落ちた。
膨らんだ風船がパンと弾けるような勢いで、隣の席の彼は椅子から滑り落ちた。
そんなに驚くようなことだっただろうかとわたくしは固まった。彼はそのまま床に這いつくばり、所謂「土下座」の体勢になっていた。
「だ、大丈夫ですか」
「ヒッ!! ご、ごめんなさい……!! ゆ、許してください!! 隣に座っていてすみませんでした!!」
「あ……」
隣の生徒は大袈裟なほどの動作で、鞄に荷物を詰め込んで教室から飛び出した。先生が「あっ……おい!」と声をかけてもなりふり構わない様子だった。
何も、怖いことは言っていない。わたくしはただ、次の授業について聞こうとしただけだったのに。
だけど。だけど。
ぐるり、と見渡して。生徒達の顔を、はっきりと見る。
恐れている。わたくしを。まるで異物が入り込んだみたいに。いつ爆発するか分からない導火線に怯えるように。
どうして……? と、考えて。脳裏にコルドバお姉様の言葉が、ぐわんぐわんと跳ね返る。
「あんな事件の後、学校に行けるとでも思っていたのか」
わたくし、イライザさんの件のように、誰かを追い詰めると思われているの?
違う! あれは、わたくしが騙されていたんだ、と冷えた指を抑えつけて言い訳を、言い訳を重ねて、重ねても。寒さが、消えない。
本当に、わたくしは悪くないの?
コルドバお姉様が、わたくしに責があると叱咤したのに。
怖い。寒い。恐ろしい。
冷える全身の真ん中に、浮き上がってくるのは、少女の呪い。お前はひと殺しだ、と叫んだ憎悪。
まっすぐ、今。それが、わたくしの頭の真ん中に染み付いた。
わたくしが、今。こんなに恐れられているのは。ひと殺しだから?
堪らなくなり、わたくしはその授業の半ばで教室を出た。
セバスチャンに支えられながら自室に戻り、着替えもせずに布団にくるまる。のに、わたくしの身体の芯はずっと冷たかった。
……わたくしは、また、あんな事態を引き起こすと思われている?
そんなわけないのに、違うのに、どうして。信じてもらえなくて悔しくて悲しい。染みついた呪いが頭の中に反響する。
――ぐちゃり。
わたくしが殺したと、全ての視線が囁いてくる。
わたくしはその日。一睡もできなくなっていた。
日が沈み、朝が来る。
いつもは弾むような足取りが、鉛のように重たい。視線がもし、変わらなければ。また、わたくしはひと殺しと思われたなら――。
「学校、行きたくないですわ…………………………」
そうして、わたくしは。部屋の中から出られなくなったのだ。
*
「お嬢様、お加減が優れませんか」
「爺や…………」
ピアノを弾くのを辞めてしまったからか、思考の空白に声が響いた。
わたくしはのそりと首を上げ、想像通りの人物を見やる。
心配をかけているのはわかっている。わたくしは学校にしがみついているくせに、教室に足を運ぶことすらできない臆病者だ。
ぐずぐずに燃え尽きた自尊心が小さくなって、わたくしはなにも動けない。泣きたい気持ちで俯く。爺やはわたくしを下手に慰めれば余計に落ち込むからと、静かにそばにいてくれた。
「……今日は良い天気です。窓ぐらい開けましょうかね」
「ええ、わかりましたわ…………」
さわり、と風がわたくしの?を撫でた。
閉塞空間が動かされて、少しばかり陰鬱な気分を吹き飛ばされる。だが、今回所詮は気休めでしかない。耳をすませば、わたくしを呪う声とあの音が、また――。
「―――― 」
歌が、聞こえる。ぐるりと円形、中庭を見下ろせる位置のわたくしの部屋まで届く、透き通る声。
風の音かと思う、囁くような音符は、わたくしの耳まで届いていた。
夕焼けが、アカデミーのシンボルを赤く染める。まばらに散った茜色。寂寥を孕んだ歌声と相まって、じんと心の中に染み込んだ。
よくある民謡。幼子の帰宅の時間を知らせる歌。友達と遊び疲れた子ども達が、弾むように帰路に着くというもの。――喧嘩別れをした、幼馴染を思い出される歌だ。
気づけばわたくしは窓辺に誘われるように立っていた。密やかに、息を潜めるように、でも。溢れる寂しさと愛おしさがこみ上げるような、わたくしの心を揺らす声。
わたくしは、その歌が止むまで聴いていた。
いつしか、わたくしの耳元で聞こえる少女の呪う声は、聞こえなくなっていた。
「……お嬢様」
「あ、……爺や」
「お嬢様、こちらを」
わたくしは爺やに差し出されたハンカチを怪訝な顔で見下ろし、ふと。雨が床に落ちて気がついた。
ハンカチを受け取りながら、わたくしは考えた。この歌は誰のものなのか。誰が切なる思いを込めて歌っているのかを、ただ知りたくなった。
「……爺や、わたくしが伝えたいことがわかりますか?」
「分かりました。お嬢様。今視認できた情報でしたらお伝えできますが」
さすが、我が家に古くから仕えている執事長だ。わたくしは高鳴る胸を抑えながら、爺やから伝えられた「ヘラルド」という青年のことを認識する。
わたくしの呪いを忘れさせるほどの、切なくて胸を打つ歌をうたう青年。
高鳴る胸。いつの間にか、わたくしの暗い気持ちなんか吹き飛ばしていた。
「わたくし……わたくし……!! 今、すごく……胸がドキドキしていますの!」
ひとりで前に進めない。なのに貴方は、進んでいるようで同じにいる。