SOTO

パルデア地方短編

登場キャラクター

幼馴染、再会するらしい

「だーから分かったって言ってんじゃん!! アンタの指摘しつこいんだってば!!」
「そう言って何回ミスをするつもり!? 分かってないでしょう!!何ならさっきよりミスが増えたし体幹がグラついてるわよ!!」

 うおぅ、と廊下まで響く怒号に思わず呻き声が漏れた。

 ダンスや歌は練習しないとすぐに錆びつく。毎日の日課である自主練のため、「ビオ」というチームが所有する練習用防音室の扉をうっすら開けたら響く女子二人の激しい言い争いに思わず閉めた。
 ……最近、リーダーに知り合い? ができたと言う話を聞いていた。気が強いがダンスに関しては熱心な子だとは言われていたが、もしかしてその子だろうか。
 お互いに臆することない激しい口論が扉を貫通して聞こえてきて、完全にビビった己は再度扉を開ける勇気が出なかった。
 下手に首を突っ込んだ日には、あの勢いで詰められたらトラウマになるかもしれない。それぐらい怖かった。なんなら防音室なのに微妙に防音しきれずぼわりとした声が聞こえる始末だ。どんな声量をしているんだ。

 どうするか? ルーチンを諦め歌の練習を……いや、スタジオは今日同じチームのシーナが歌ってみた動画の為に使っている。邪魔しにいくのも悪いだろうし……と考え始め数分。声の応酬が扉越しに聞こえなくなり、口論が止んだかと恐る恐る扉を僅かばかりに開けてみる。

「……で、部屋の鍵全部変えられた挙句内側から開けられない仕様になっててさ」
「なんでそうなってるの貴方たちは……」

 談笑してた。
 なんでだよ。さっきまで殴りかかりそうな勢いで言い合ってたのにものの数分で仲直りしたのか? 女心は秋の空と言うらしいがそれをまさしく体現したような光景に、深く考えないようにしようと首を振った。

「……あら、イェロン。そこで突っ立ってないで入ったらいかが?」
「……………………………………あ、はい」
「……その間は何かしら」
「…………い、いや……」

 鋭い指摘にびくりと内心跳ねさせながら、いつもの荷物置きスペースに練習用の道具一式が入った鞄をそっと置く。下手に音を立てたら二人の機嫌を損ねないかと内心ビクビクしたのが動作に出ている。
 その動揺を知ってか知らずか、二人の女子は軽い口調で談笑に戻ってしまった。片手にスポドリを持っているから、恐らく休憩に入ったんだろう。多分。

 ちらり、と様子を伺う。視界の端にリーダーともう一人の少女が見える。
 少し上背がある方の女性は――ミーリアという、自分たちのリーダーだ。その女性に向かい合ってるのが、恐らく己とそう年齢は変わらないであろう、緑色を基調とした衣類を身に纏った少女だ。大きく開かれた目は少女らしく愛らしいようで、吊り上がった目尻と切れ味抜群なナイフみたいな口調で性格の強さが伺える。
 我が強い女性はちょっと苦手だ。とあるツインテールを揺らす女性が脳裏に過ぎり、慌てて首を振る。あんまり頭に浮かべているとひょっこり出てきそうで怖い。三人目が来たら小さくなって震えるしかない。最早誰の手にも負えない。

「ところで、イェロン」
「ヒィッ!! 何ですか!?」
「どうして急に飛び上がっているの。……まあ、それはいいとして。貴方も見学していくんでしょう?」
「は……? け、見学……?」
「……もしかして知らずに来たのかしら。もうじきフラメンコのプロダンサーの方がいらっしゃるのよ。貴方もそれを見学しに今来たのかと思っていたのだけれど」
「は……? フラメンコ……? プロダンサー……?」

 何の話だ。聞いてない。
 いや、記憶の端から思い出される。朝の定例報告会で一番に言っていたような。フーン……と思って流してしまったような。隣でシーナがジューンを引き連れ最近流行りの動画の歌ってみたをどうのこうの話しかけられていたのに意識が全部持っていかれてしまったような。
 うっすらとした記憶から辛うじて思い出した記憶を反芻して納得していたら、リーダーであるミーリアの眉間にピピッと皺が入るのを見た。ちゃんと聞いていなくてすみませんでした。

「全く……ちゃんと聞いておきなさい。今回はまあ急な話だったからよかったけれど。結局、どうするの?」

 生返事をしながら「フラメンコのプロダンサー」という単語が脳内を反響する。
 そんなツテ、どこから見つけてきたのだろう。時折このグループの人脈の広さに脱帽する。
 ぼんやりと、単語に引きずられたのか。実家にいたころは、より良いものを見て豊かな教養をつけるべく多くの習い事をさせられたな、という実家の事が思い返される。反芻された苦さが喉の奥を掠り、表情に一瞬出たかもしれないと思ったのを慌てて表情を取り繕う。
 だが、今は自分も表現者だ。何かを得る機会は逃すわけにいくまい。それも、プロダンサーなんて実家の権力があればともかく、自分の今の環境で易々と接触できるものではない。ありがたく享受しよう。

「ええと……はい。とりあえず、ぼくもいいなら……」
「そう。だったら連絡しておいてもらえる? ……あの方、あんまり気にはしないでしょうけど」
「フラおじ、別に気にしないでしょ。指導っていうか、踊りにきてるぐらいだと思ってんじゃないの。…………ウワッ通知がヤバ」

 成程、ツテは最近知り合ったダンサー志望のマスカーニャからだったのか。
 いかにも女子高生らしくキメにキメた赤色のネイルをした手に乗せられたスマホロトムが焦ったように揺れている。恐らくSNSの膨大な通知によるバイブレーションだろう。
 嫌そうな表情をしているのに、彼女の近くにいたミーリアが呆れたようにため息を吐いていた。

「なんでそんな今になって通知が大量に……?」
「知らない。多分アタシをどっかで見かけたんでしょ。ちょっとまって、そんな連絡したらウザいから黙ってろって送っとく」
「ハァ…………」

 リーダーの心底呆れたようなため息が耳に入る。少女が指先で先ほどの罵倒を本当に送ったのか、通知が一時止まっていた。流石に通知を一生鳴らすほどの勢いで送るのはどうかと思うが、自分ならあんな冷たい言葉を送られると自室の隅で泣いてしまうかもしれないと連絡相手に合掌した。彼氏かどうか知らないが強く生きてくれ。

「えーっと、とりあえず……その方っていつぐらいに来るんですかね……?」
「多分そんな一時間もかからないかと思ったけど、今連絡したらさっきの爆裂通知男を捕まえたらしくてもちっと時間かかるかも」
「…………………………………………………………………………はい?」
「ああ……アタシさあ、ストーカーがいて」
「えっ」
「すごいんだよね、SNSが。見る?」
「なんで見せようとするの? やめなさい!! ウチのメンバーを精神汚染しないでちょうだい!!」

 軽いノリでストーカーと言われても……。
 硬直した自分の代わりにリーダーが鋭く遮られた。別段、他人のストーカーを見ても汚染されるようなメンタルではないつもりだが、見たくもないので口噤んだ。余計なことを言ったら酷い目に遭う。そんな鈍い第六感が囁いた。

「ハァ、もういいわ。貴方も幼馴染だからって対応が甘いんじゃないの。流石に見ていて不安だわ」
「急所蹴りしたのにへこたれないんだよな……」
「どうなってるのよ貴方達は」

 怖い。ギャルみたいな女子とあまり関わったことがないが関わらなくて正解だった。怖すぎる。首突っ込まないでおこう。ストーカーもやばいが急所を蹴り潰しに行ってるのか。殺意の打点が高い。怖い。関わりたくない。
 何も聞かないフリをして、自分は二人から少し離れてストレッチをすることにした。
 ……が、広いとは言えど同じ空間なのだ。休憩を始めた二人の会話は否が応でも聞こえてくる。ぐ、ぐ、とアキレス腱を伸ばしながら集中しようと意識するが、耳にはイヤでも会話が入ってくる。

「歌……?」
「そうそう。なんか作曲家のひとがついたから音楽活動してるっぽくて、それを聞いたかどうかで結構しょっちゅう連絡来てるからちょっとね」
「まあ創作物には罪はないけれども……」

 気になる話でちょっとだけ聞き耳を立てる。
 音楽活動か。少しだけ、気になってしまう。己も色んな形だが、ダンス等の自己表現の形として活動を行っている。
 が、やはり何かの模倣に過ぎないのだ。自分の精神の海から何かを引き出すことはできない。誰かが描いた線をなぞり、完璧に仕上げるだけ。
 それで評価されるのは。まあ、それはそれで嬉しいけれど。でも、と自分の何かが燻っている。

「最近なんか作詞は自分でするようになってさ」
「あー………………SNSで流行ってたような気がするわね。前衛的な歌詞というかなんというか………………」
「前衛的でいいのこれ」
「明らかにただひとり狙い撃ちした激重ソングを丸く言えばそうなるとは思うわ」
「作曲のひとよくこれをいい感じの歌にしたわと思ってるけど、アタシも」
「まぁ…………………………それは………………………………苦労が…………偲ばれるけれど…………」
「悩みすぎじゃない?」

 なんだか依然と気になってきた。リーダーがあんなに渋いものを食べたようななんとも言い難い顔をさせる歌ってなんだ。
 割と広いジャンルを網羅している自信はある。中には大丈夫なのかそれは……というものもあったが、そういったものなのだろうか、と会話をBGMにしてアキレス腱を伸ばしていく。

「なんなら一緒に聞く? こう……分散させたくて」
「言い方が嫌なのだけど!? 一体どんな歌なわけ!?」
「まあ歌はいいよ、歌は。まあ……うん……」

 リーダーが「聞きたくないです」と言いたげな嫌な顔をしているのに、ギャルは容赦なくスマホロトムを弄る。
 ギャルマインド強すぎる。ぼくだったらちょっと凹んでやめる。ギャルは我が道を行って全ての意見を粉砕していくのだろうか。シーナに通ずるものがあるな、やっぱりあれはギャルなのだろうかと一人考えていると、ポケtubeから動画を再生し始めた。

 警戒していたのは音楽として破綻したものだった。だが、耳に聞こえてくる「音」は想像と違っていた。
 意外と曲調は爽やかで流れるようなロックだ。寄せ集めの学生がやっているためか、ギターやドラムの拙さは確かに分かる。だが、それを補うような相当技術があるキーボードとかなり印象が残る歌声で妙な味わいがあるリズムを刻んでいる。
 これ、上手いドラムやギターが入ればかなり変わるだろう。ボーカルも相当上手い。種族的に歌が上手いとされる「ラウドボーン」の伸びやかな声量がしつこくない青空を想起するリズムで耳にも残りやすい。時折短調の暗めな変調が入っていたとしても、いやらしくない。シーナも好きそうな曲だろう、知っていたら歌ってみたをやりたがりそうだと考えて。よく聞いてみればそんな想像をとりやめた。

 歌はいい。歌は。歌詞が外国語だったらなんの気もなしに聞けた。
 なのに、パルデア語だから分かってしまう、「だひとり狙い撃ちした激重ソング」の意味を理解させられる。明らかに分散させたいと宣った少女像を思い起こされる「君」への異常なラブソング過ぎて身体が引き攣った。怖い。爽やかになっているから余計に怖い。
 あの暗めな変調のところの「ガチ」さがちょっとした夏空の下にある絶対入ってはいけない場所みたいな悍ましさがある。青空の下の明らかに立ち入り禁止エリアの洞窟とか祠とかの深淵を覗くみたいな感じの。いや、それを表現できて頭の中に残るなら確かに表現者としては成功かもしれないけどこっちの胃の腑が重い……。

「…………………………………………作曲のひとの苦労が偲ばれるわ」
「昔は作詞もそのひとがやってたんだけどねぇ」
「………………………………そう……………………」
「目で見てわかる苦虫を噛み潰したような表情をしてるじゃん」

 多分似たような顔を自分もしている。盗み聞きしてしまってのこの顔だ。見られてしまったらちょっと気まずい。
 しかし、末恐ろしさも感じる歌詞をなんとかすれば、爽やかな青春ソングとしては綺麗に成立しそうだ。学生バンドではなくプロが演奏すれば結構耳に残るキャッチーさもある。やはり、キーボードが上手い。間奏に挟まれるソロはほぼキーボードだ。多分、拙いギターの腕に任せられないからキーボードが頑張っているところもありそうだ。
 気になって自分もポケtubeを覗いてみる。検索してみればすぐ出て来た。初期は恐らく動画サイトにアップロードするなんて理解していなかったためか、荒い動画と音割れしたライブを撮影したものしかなかった。結局学生バンドなので、そういった正道でやっていた時はあまりウケていなかったらしい。

「結局誰なの? 学生なんでしょう、作曲も」
「えーっと、誰だったかなぁそれ……」

 ポケtubeを見てもバンド名は「料理研究部バンド」などそっけない。時期的に宝探しも兼ねてやっているのだろうか。ボーカルの名前のみが書かれていて、あとは別に喧伝する気も一切なさそうだった。作曲のひとの名前は一文字も書かれていない。
 しかし、撮影者の腕は相当悪い。ボーカルで歌っている顔のいいラウドボーンばかりが画面に映っていて、キーボードの方なんて映しやしない。結局素人がライブを撮影しているだけのものなので、後にアップロードされている音源のみの動画は顔出しすらしていなかった。

「…………ちゃんと聞いたけど、結構曲はいいのよね。作曲のひと、なかなかセンスがあるわね。流行りを取り入れているわけじゃないけれど、決して古臭く感じないし」
「そうなの? まあそうかも。初期はあんまウケてなかったけど音と空をリンクさせてる曲が多かったけどね。アタシはこういう風なの割と好きなんだけどヘラルドはあんま好きじゃないっぽくて歌にやる気が無かった」
「ウケていない理由それじゃないの…………なんなのこの男は……………………………………?」
「真顔」

 初期の曲も気になって動画の歌詞を見やる。普通に爽やかなラブソングだ。この特徴のある声量で歌えば結構耳に残るのでは、と思ったのに本当にウケてなかった。再生数が段違いだ。
 どんだけやる気なく歌ったんだ。逆に気になる。本当に作詞作曲をしたひとの苦労を感じていると、突然思い出したようにギャルが「ああ、」と声を出した。

「思い出した、セイナダってひとだっけ。確か」

 唐突に、殴りつけるような聞き覚えがありすぎる単語で、手が止まった。
 心臓がどくりと強く跳ね、無意識に手に汗をかいていた。

 セイナダという名前は、まあ、よくある名前だろう。聞き間違いかもしれない。バクバクと耳の裏まで心臓が騒いでいる。
 でも、確かに。彼女は長年ピアノを習っていたから、キーボードも上手いだろう。けど。
 彼女が学生に交じってバンドへの作詞作曲をするのだろうか。連絡を取っていないが、彼女は学校なんてものに通っている印象はなかった。あの厳しすぎる姉が外に出さず、あの屋敷の中で過ごしているとばかり思っていた。

 だが、その嫌な予感を補強するように、ギャルの口からぽつぽつと語られるのは、「セグレイブ」で、「有名な一族の末っ子でお嬢様」で、と。聞き覚えがあるものだった。
 ――何故、彼女がバンドなんてものをやっているのだろう? その情報を知りたいのに、ギャルは興味無さそうに説明し、リーダーも「ふぅん」と言葉を取り上げることはない。

「……あー、なんだっけ。作詞作曲やってバンドでキーボードやってたはず。よく知らないけど」

 追い打ちをかけるような独白を背景に、自分の思考回路は過去に戻っていた。


 *

 逃げ込む場所は無かった。
 雑巾を絞った後の汚水は相当臭う、というのを自覚したのは保健室に担ぎ込まれ傷の治療をされている時だった。

 転び始めたきっかけは分からない。でも、積み上がっていたのだろうか。道に、ひとつひとつ。小石を積み上げて、転ばせるように仕向けられていたのかもしれない。そういった些細なものがいつしか「いじめ」という形に変わってしまった時、自分の身体には傷が増えていた。
 傷は痛いのに、もっと痛いのは胸の内。どうしてこの心臓が軋むか分からないまま、ずぶ濡れになってトイレで泣いていたのを、セバスが素早く見つけて自分を保健室に担ぎ込んでいた。

 恵まれている生まれ、というのは分かる。だって、ノートの残量を気にして使ったことなんかないし、気に入った文房具は筆箱の中に入っている。ただそれだけの事も出来ない子どもなんてたくさんいる、と知ることになったのは、学校に通い始めてからだ。
 異質。多分、その感情を名付けるのならば、そういった名前だ。それが詰み上がった小石であり、自分の足元に絡まって、逃げられなくなっていた。

 でも、だからといって、なんでこうなったのか分からない。だんだんと周囲と明確な摩擦が起きた。火花が散って、気づけば燃え上がっていた。燃え上がった炎の処理なんて分からず、自分はただ、耐えることを選んだ。きっと、両親に言えば全てが解決する。自分に都合の悪いもの全てが目の前から消え去って、何事もなかったかのように片付く。
 だが、過去の仲良くしていた思い出がそれはいけないと押しとどめて、自分の傷を広げるばかりになった。

「ご子息。ただ、耐えるだけというものは正解ではございません。貴方にも許容量がある。それを超えた時、酷い結果になるのは目に見えていますよ。行動するのならば早い方がよろしい。全てを片付けてしまうのか、それとも手放すのか。……我々は御子息の味方です。思うままに行動なさりますよう」

 セバスの言葉は心強かった。そうして目の前に選択肢は与えられた。選択肢は剥奪されなかった。その狭められた自由すらありがたく思うほど、きっと追い詰められていた。
 母を頼れば、全てが終わってしまう。そして残るのは、両親に頼らねば何もできない無力な自分、というがらんどうの自負のみ。
 そんなの、もう、お人形と変わらない。そう思うと、自分の心の中にあるのは「どうにかして逃げたい」だった。
 取り繕うのにも疲れていた自分には、セバスが準備した「遠くに行く」という答えは魅力的に見えた。

 反対する母親をどうにか説き伏せた後の心残りは、自分と同じような境遇の幼馴染だった。
 セイナダ。代々ナッペ山の一部を支配する一族の生まれであり、彼女の姉は今やパルデア中央政権の一角でもある。自分と違い、外部との関係性は一切断たれており、本当に純粋なまま無邪気に育った彼女を説き伏せるのは気が重かった。

「なんでですのーーーー!?」

 ああ、ほら、やっぱり。
 少女の泣き声が聞こえる。周囲に集まった心配そうなアルクジラがホェホェと彼女の服の裾を引っ張るが効果はない。
 泣かせるつもりじゃなかったけれど、もう決めていることだ。ぎゅうっと服の裾を握りしめて口を紡ぐ。言い訳をすればするほど泣かせてしまうことなんか分かっている。だから、口を噤む。ぐっと言葉を詰まらせて、彼女の泣き言を受け止めるしかない。

「なんでなんですの!? どーしてそんなとこに行っちゃうんですの!? 幼馴染をおいて!?」
「………………それは、まあ、留学したくなったからだし」
「そんな急に思い至ることありますの!? なん……なんでですのこのあんぽんたん……!!」

 普段同学年に浴びせられる罵声からすれば丸くて可愛らしいばかりの悪態だ。純粋で、何も分かっていない。こんな水槽の中にいれば当然か。
 自嘲気味に思考を飛ばしていると、強く袖を握りしめられたまま、子どものように大声で泣き喚いている。
 そうだよ、ぼくらは泣いて縋ればどうにでもなってしまう。でも、どうにでもしてしまってはいけないと知ってしまったぼくは、その腕に応えられなかった。

「まあ、今の学校で勉強できることは勉強したし? もう少し、新しい世界を見たいし――」
「そ、そ、それでわたくしを置いて行くっていうんですの!? ひどい!! 裏切者!! なんでそうなっちゃうんですの!! おばかー!!」
「馬鹿ってなぁ……!!」

 カチン、と来た。
 別に裏切ってなんかいない。こちらはそれなりに色んな覚悟をして、考えた末の結果だ。
 なのに、何故、そこまで言われなければならない?
 普段の軽口ならば受け流せた。相変わらず子供っぽいな、と揶揄うことができていた。

 でも、それすらできない。今、そんな言葉を受け止められる心のスペースなんかなくて、導火線を踏みしめたようにむくむくと苛立ちが迫ってくる。
 何も知らない癖に、とか。ぼくの努力を知らないフリして好き勝手、とか。そんなもやもやしたものがカッと頭の中を渦巻いていく。

「ぼくの決めたことなんだから勝手だろ!! セイナダの言い分を押し付けるなよ!!」

 一瞬、虚を突かれたような顔をしたのが忘れられない。
 多分、そんな風にぼくが反論するだろうとは思っていなかったのだろう。

 確かに今までは喧嘩もしたけれど、こんなに攻撃的な言い方をしたことは初めてだ。今の言葉の内容は明らかに棘があり、セイナダを傷つけようとした意志も交じっていた。そんな言葉に、彼女が耐えられるはずもない。
 ぶわりと涙を溢させしゃくりあげながら、「あんぽんたん……イェロンのあんぽんたん……」と呻きだした。

「なん……なんでそんな言い方するんですの!? ……もー怒ったですの……!! もう連絡なんかしてやりませんわ!!」
「ぼくだって連絡しねえよめんどくさい!! もうあっち行けよ!!」

 強い語気を出すと、セイナダは「ばーーーーーか!!」と幼児のように泣き喚いて走り去っていった。まるで嵐が去ったようにぽつんと取り残されると、心配したアルクジラ達は自分も一瞥して、慌ててセイナダを追いかけて行ってしまった。
 暫くむかむかして、幼馴染とアルクジラ達がいなくなったあとの雪景色にもムカついて、思いっきり蹴り上げる。ぶわっと白い雪が視界を舞う。なんだか全てが腹立たしくて、悪態を吐きながら雪を蹴り飛ばし続けて数十分。雪の寒さにだんだんと胃の腑まで底冷えし始めて、虚しくなって真っ白な上に寝そべった。

 別に、こう、こんな風に別れるつもりじゃない。
 別れるつもりじゃ、なかった。はずなんだけど。
 もうちょっと穏便に、また帰ってきたら遊んでと言えるぐらいの別れにするつもりだった。なんなら、留学した後もこんなことがあったとか連絡できたらな、とか思っていた。

 なんだか、もう。全部、上手くいかない。全部めちゃくちゃだ。
 怒りが過ぎると、無性に寂しくて悲しくて、虚しくなった。雨なんか降っていないのに、自分の顔はぐっしょりと濡れていることに気づいたのは、瞼が染みるぐらいに痛くなってからだった。

 誰にも会いたくなかった。誰にも、この苦しい気持ちを分かってもらえないと思ったから。
 とぼとぼと家に帰りついた自分は、使用人の手伝いすら全て断って、荷造りを始めた。


 次の日、全てを振り切るように空港にやってきていた。
 両親、特に母親が泣きながら盛大に見送るが、それも全てが煩わしかった。

 逃げたい。ただ、もう、遠くへ。何もかもを忘れて。その一念で必死に足を動かしている。
 両親への挨拶をそこそこに、さっさと空港のラウンジへと足を進めていく。……両親が無意味に張り切ったのか、時間が良かったのか、ファーストクラスのラウンジはほぼひとがいなかった。使用人の同行も断ったのだ、暫くひとりになれる――とソファに身を預けた瞬間だった。

「おい」
「ヒェッ」

 何故、ここにこのひとが!?
 殴りつけられたような衝撃で慌ててソファから立ち上がる。それでも尚、巨大な山のように聳え立ったそのひとは、あまりにも見覚えがあった。

 コルドバ。セイナダの姉であり、その家の次期当主そのひとだった。
 じ、と目が細められる。セイナダと並んで死ぬほど怒られてきたのだ、反射的に萎縮してしまう。いつだって巨大なナッペ山のような彼女の目には全てが見えているのかもしれない。バクバクと恐怖で引き攣る心臓を抑え、逃げ出すべきか言い訳をすべきか悩んでしまう。

「な、なんっ……何故ここに……」
「私がここにいることはおかしいか? この間まで出張だったのだ。お前と入れ替わりだ」
「は……ひぇ……」

 淡々と喋る言葉は、女性にしてはかなり低いトーンで重圧がある。
 頭の上にどんどん重しを乗せられるような圧迫感に緊張しながら、背筋を何とか伸ばしていく。猫背になった瞬間叱り飛ばされそうな。

「そうだな、あとは……セイナダが拗ねてしまってな。我が家からついでと言ってはなんだが、私が見送りに来たんだ」
「……えっ…………」
「当家としても貴家とは良好な関係性を維持したい。まぁ、幼いお前達には分からんかもしれんが、当主代行として見送りぐらいはしよう」
「………………………………………………はぁ」

 煩わしい家の繋がりか。結局、それだけしかない。
 コルドバという女性は、常にパルデアという国と家の事以外は本当に冷淡だ。セイナダが時折「お姉さまは本当に厳しいんですの!!」と言いたくなるのが分かるほど、血の中まで凍っているようなひとだった。

 セイナダがやってこない理由も発覚したらどうなるのだろう。結局、セイナダを優先するだろう。なんだかんだあの無邪気な幼馴染の姉なのだから、と思うと怒りも悲しみも恐怖も萎えたように虚無になる。
 対応が面倒くさいな、と心の内を見抜かれたのか、眼鏡の奥の金の瞳が鈍く光った。

「……お前は必死に隠しているかもしれんが、お前が望めばイッシュに留学しなくても良い方法があるぞ」
「えっ……」

 まさかそんな言葉が降ってくるとは思わず、まだ治り切っていない腹の痣を庇うように縮こまった。
 そんな動作を目ざとく見やった目の前の強大な存在の視界が何を考えているのかなんて、ガラスで曇って見えない。

「必要ならば言え。手助けならしてやれる」
「……………………それは」

 それは、確かに何かが変わるかもしれない。閉塞したような行き詰まりから逃げられるかもしれない。
 彼女はいつだって物事をスマートに片付ける。自分とセイナダが起こした問題なんて何事も無かったかのように全て綺麗に片付けて――片付け――。

 ……いや、ダメだ。
 分かっている。手を借りれば簡単だ。だけど、このひとは容赦なく「消す」のだ。両親も権力者だが、彼女は中央政権を握る存在だ。それに睨まれた存在が「どう」なってしまうかは――昔、誘拐騒ぎがあった時に知ってしまったから、ひゅ、と喉の奥が寒くなった。

 かつて、仲が良かった。なのに、なんでか全てぐちゃぐちゃになった。原因はわからない。
 かといって、本当に「消」して欲しいわけじゃない。あんな、寒空の下。彼女に付き従う黒服で老年のハルクジラが無表情で雪の中に泣き叫び命乞いをする誘拐犯を殴りつけ黙らせながら埋めていくのをチラ見してしまった身としては、ああなってくれまでと憎み切れない。
 潜在的にこのひとが恐ろしい存在だなんて、ずっと昔から知っている。自分と、自分の身の周りを害する存在だと判別すれば、存在すら歴史上から消してしまえる存在なのだ。

 そして、両親もそんな穴の貉なのかもしれない。この目の前の女性ほどではないにしろ、きっと、そういった風にひとの痕跡をチェス盤から払いのけるように片付けられるひとたちなのだから。
 多分、自分がこうやって抱えるのも、両親に言えないのも。全て理解して、超然としているその精神性が、受け入れられない。

 この幼馴染の姉は、もっと冷たい。自分達が特権階級である自負と共に、ひとの存在を指先で弾くように消せるのだ。リーグ四天王は一種の国家の中枢だ。自覚が薄い自分達を庇護するためならば、骸を積み上げても構わないと思う恐ろしい迫力がある。
 ……いや、本当にやる。彼女がセイナダを学校に通わせない理由もそこにある。セイナダが害された時、積み上がるのは死体だ。彼女は、私刑すら世間に察せられることなく全うできてしまう権力者なのだから。

 すぅ、と冷静になった頭が。無理だと根を上げた心が。そうすることが正しいと、自分に突き付けた。
 ――行くんだ、外へ。自分が納得できるまで。もう帰らないかもしれないけれど、自分が満足できるところまで、遠く。そうして、自分の心に折り合いをつけられなければ、ずっと立ち止まったままだ。
 奥歯を噛み締めて、一言。自分の言葉で。

「………………………………行きます」
「ふむ? そうか。息災でな。セイナダも寂しがる、また連絡してやれ」

 他意はない、かもしれない。そう言い切れない迫力が引っかかる。
 その恐ろしい存在は、それだけ言うと。未練などないとばかりにヒールを鳴らして歩き去っていった。その背後には、かつて誘拐犯を無表情で生き埋めにしていたあの黒服の執事もいる。

「……………………………………」

 そうだ、自分たちは特権階級だ。
 薄々感じていた、このファーストクラスのラウンジだって、本来は貸し切りできるようなものじゃない。
 もしかすると、自分の両親かあの恐ろしいセイナダの姉かがそうしたのかもしれない。お金があるだけではできない所業を、指先ひとつでできるような強大な存在なんだ。

 そして、自分たちは。そんな存在に守られてきた。守られてきたから、何も知らないまま無防備に外に出れば、こうやって傷つく。初めから分かり合えないものとして意識していれば傷つかなかったのに、結局。何もかもがぐちゃぐちゃになって、柔い心の方が傷ついたのだ。

 スマホロトムを開く。
 今なら、この連絡先を消すか、連絡するか引き返せる。
 連絡しないと言った。だったら、もう、この番号を残す意味なんてない。残しているのは所詮、未練でしかない。
 何も知らない傷ついた自分と、何も知らないまま水槽で漂っているだけの幼馴染。変化が訪れれば壊れるような柔い関係性でしかなかったのに。そんな縁も、自分で断ち切ったというのに。削除というコマンドを、選べない。

「……はぁ」

 閉じた。
 答えは保留だ。……もしかしたら、セイナダの方から連絡があるかもしれないし。これで着拒されていたのなら、もっと泣くだろう。そこまで悲しませたいわけじゃない。
 未練がましくスマホの電源を落として鞄に入れると、空港のアナウンスがイッシュへの便を知らせていた。
 ぼくは、振り返ることもなくその飛行機を目指して歩きだしていた。


 *

 音がする。
 ジリリリリ、と鼓膜を打ち鳴らし世界を暗転させる音が。
 夢を見ていた。懐かしい過去の思い出と苦さが、胸中をぐるぐるして圧迫している。

 あの後、何をしたっけな。セイナダの名前に気を取られて、ぼんやりしていた。
 ああ、そうだ。あの後、フラメンコのプロダンサーというひとが来て、かつて憧れていたダンサーが女装しているという情報量に眩暈を起こしながら観劇したような気がする。脳がところどころオーバーヒートしてちょっと色々思い出せない。

「…………もう何年前だろ……」

 幼馴染の泣き顔を思い出した。
 記憶の中の彼女は、まだ幼い少女のままだ。既に二十歳を目前に迎え始めた今は、どうなっているかもよく分からない。彼女の姉をベースに考えてみるが、あの姉は絶対零度の無骨な装甲のような女性なので、全然イメージが湧かない。

 あの頃からずっと、連絡しなかった。連絡も無かった。
 だから、縁は切れたかもしれない。実家にすら寄り付いてないから、既に忘れられているかもしれない。

 確かに、月日は経った。あれから自分の耳に穴は増えたし、イッシュから帰国すれば大分環境も変わった。実家の煩わしさは変わらないけれど、セイナダのことは何も聞かなかった。

 ぽちりとスマホロトムを開く。
 簡素で全く捻ってもいないバンド名。セイナダが世間に露出することを、あの姉が許したとも思えない。気のせいかもしれないなんて思いたくて、でも、を繰り返して。
 彼女は、水槽から出たんだろうか。強固に自分を守る、あの家から。

「………………………………………………………………はぁ」

 スマホをタップすると、ロトムがニヤニヤ笑いながら連絡先一覧を表示する。
 あの日から、ずっと連絡先は消せなかった未練。それでも、やっぱり、気にはなる。

 とりあえず、情報収集から始めようと開き直ってから、ベッドの布団を弾き飛ばした。


「まずい、なんて会話してたっけ……誰かセイナダと連絡とってるひととかいるのかな……」